オリジナル小説 夏の風(一)

   2014/10/08

あの小さな身体のどこにあれ程の元気が詰まっているのだろう。まるで空気の詰めすぎで破裂しそうなゴムボールがいつまでも弾み続けるように、彼女は止まることを忘れたようだ。

彼女の行動パターンをつかもうと、尾行し始めて、もう一週間たった。

時折脱ぐ帽子の下の彼女のヘアはショートカット。彼女が突然振り向くたびに、僕は慌てて下を向いて携帯メールを確認する振りをするのだが、チラッと見える彼女の顔は童顔で、身長と同じ小振りである。

確か彼女は二十三歳だと聞いている。だが、あそこを歩く女子高生の顔より、ずっと幼く見える。

着ているものは決まってティーシャツにジーパン。黒いショルダーバックを左肩から右脇に向けてかけ、ついあいつの娘だということを忘れそうになるほど、一生懸命歩く。お陰でこっちも一週間歩き詰めでくたくただ。

しかも彼女の行動パターンに決められた原則は全く存在していないらしく、毎日出てくる場所も違えば歩く先も違う。少なくともここ一週間の間は、寝る場所も定まっていないようだ。

そのせいで僕はこの暑い七月の最中、七日間も同じパンツをはき続けている。そろそろ股が痒くなった。

限界だ。行動パターンをつかむ前に、やっと治った股の湿疹がひどくなりそうだ。こうなったらチャンスを見つけ、ここいらで決行した方がよさそうだ。それに、公園や路地ではもう一晩たりとも寝たくない。

幸運にも彼女は小柄だ。人気のない路地に入ったときにヒョイと肩に担げばわけない。

その時もし大声で叫ばれたらどうすればいいか・・・・・・は、歩きながら考えよう。

路地で担いでそのまま車まで・・・・・おっと、車は自宅においたままだった。

ちくしょう! また股が痒くなった。

あっ、走り始めた。何てことだ、上り坂だ。しかも、彼女の足は速い。

と、その時、走っているのは彼女だけではないことに気がついた。

彼女の七・八メートル後ろを歩いていた男が、一瞬遅れて走り出したのだ。黒い帽子をぐっと深くかぶり、帽子のつばの下に見える顔は髭で覆い隠されていた。着ている服も黒一色で、足もとのスニーカーだけが、履き慣らされたように薄汚れてはいたが、白だった。

ちょっと異様な雰囲気が感じられた。

この坂を上りきったところには何があっただろうか? 川だ。川土手につながっていて、向こう岸に渡る橋がある。しかもその川を少し下るとすぐに水門だ。

まさか・・・・。え、まさか?

全身に鳥肌がたった。せっかくの獲物を横取りされては、一週間の苦労が水の泡だ。そう自分に言い聞かせながら、必死で坂を駆け上った。

あいつに復習するためだ。今彼女になにかあったら困る。だから何とかしなくては・・・・・。

目の前の光景を見て、不安は的中したようだと確信した。

彼女の足が速いといっても、やはり男の足にはかなわなかった。橋の真ん中あたりで男に追いつかれてしまった。

だが、僕の目の前を走る男は、足の上げ具合を見ると、中年のようだ。

僕は死に物狂いで男を追いかけ、やはり橋の真ん中あたりで男に追いついた。

しかし、その時男は既に彼女の太腿に手をかけていた。

一瞬の出来事だった。

男は彼女を追い越し際に彼女の太腿を掴み、上に持ち上げて、そのまま走り抜けた。その反動で、彼女の身体はあっという間に欄干の上に上半身が乗り、回転しながら欄干を越えて向こう側に落下していった。

ああ、何てことだ。せっかく見つけた獲物なのに。こんなところで消えてしまっては、あいつへの復習ができなくなってしまう。逃げた男を追いかけるより、彼女を何とか助けなければ・・・・・。あいつへの復習のためだ。あいつへの復習のためだ!

まるで念仏を唱えるようにそう自分に言い聞かせて、彼女が落ちた欄干の向こうへ、僕も飛び込んだ。

水門に吸い込まれる前に彼女を救い出さなくては。そう思ったのも体が水面にぶつかるまでだった。水面へぶつかる時の衝撃はかなりのものだ。まるでコンクリートの上へ叩きつけられた気がした。意識がなくなっても当たり前だと納得し、意識が薄れても抵抗しなかった。

誰かが僕の手を掴んでいる。今グイッと強く握って引っ張った。この力強さは父だろうか? いや、父はつい先日亡くなったはずだ。じゃあ、母? そういえば今僕を握る手のひらが柔らかい。でも、母も父と一緒に亡くなったはずだった。妹の手? いや、もしそうだとすると、もっと小さいはずだし、それに妹も死んだはず。

水の中を浮き沈みしながら、数日前の悲しみと悔しさがよみがえった。意識のない方がどんなに楽か・・・・・。

体が宙に浮いていく。いよいよ僕も父たちの所に行けるのか・・・・・。欄干を自分の意思で飛び越えたのだ。自ら死を選んだ父と同じところに行っても、不思議ではなかろう。

アドレナリンが脳細胞に染み込み始めたようだ。たとえ様のないほどいい気持ちだった。

そのとき、力いっぱい頬を叩かれた。痛みより、バシッという音に、まず驚いた。なんだ、意識はさほど薄れていなかったようだ。

次に反対側の頬を叩かれた。今度はかなり痛かった。今目を開けなかったら、間違いなくもう一度叩かれる・・・・そう思い、薄目を開けてみた。

ショートカットの彼女の顔が、天を遮るほど大きく僕の視界を塞ぎ、僕の顔を覗き込んでいた。しかも容赦なく濡髪の雫を僕の顔にボトボト落としながら。

眩しいのと、冷たいのと、目の前の顔がクルクル回って見えるのとで、すぐにまた目を閉じた。

今度は僕の服をつかんで身体全体を揺らし始めた。でも、それくらいではこの目は開かない。

「ちょっと、起きなさいよ! ねえ、起きて! 全くだらしないんだから。どうして私の後をついて来たの? 目を開けなさいってば! 私が助けなければ、あなた、死ぬとこだったのよ。どうして後をついて来たの?」

後をついてきた? じゃあ、ここは『あの世』?
この世からあの世に彼女のあとをついて行ったということ? いや、身体がだんだんだるくなってきた。この世に何とかまだ踏みとどまっているようだ。

ああ、思い出した。

「君を・・・・誘拐・・・・しなくては・・・・」

彼女の僕をゆする手がぴたりと止まった。

その後どれくらいそうしていただろう。きっとわずかな時間だったのだろうが、一瞬でもじっとしていられることを感謝してしまった。そして、彼女がジリッと砂利を踏む足を動かすと僕の頭が少し傾いたので、彼女の膝の上に僕の頭があることに、やっと気がついた。もっと早くそのことにも感謝すべきだった。

彼女は一言「誘拐?」と繰り返し、多分両足を開いたのだろう、僕の頭がガチッと砂利の上に落とされた。首に力のない頭蓋骨は結構重いのだろう。同時に五つもの拳骨を食らったような、かなりの衝撃だった。目を閉じていても火花が飛び散った。

そして彼女は、水浸しの靴をグチュグチュ言わせながら、僕に誘拐される前に・・・・、いや、瀕死の僕を見捨てて、どこかへ行ってしまった。

・・・・・そういえば、僕は彼女を助けるつもりで飛び込んだのだが・・・・・、その目的は達せられたようだ。彼女は死ななかったのだから。

つづく・・・

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