オリジナル小説 夏の風(二)

   2014/10/13

世の中の日本人は本当に薄情者だ。きっと岸の向こう側を通る車からは、二人の川に落ちる姿が見えたはず。
「お?落ちた。死んだかなぁ。明日の朝刊に載るだろうね?」の会話が関の山だろう。

誰もこの現場に現れては来なかった。まあ、僕にとってはそっちの方が好都合だ。
下手な詮索はされたくなかった。
今はとにかくこのままここで目を閉じていたいだけだった。

だが、目を閉じていると、逃がした獲物が気になり始めた。

彼女は確実に狙われ、川に落とされた。
彼女があれだけの幸運を持ち合わせていなければ・・・・というより、普通の人なら、あの流れと、水を含んだ服の重さで、きっと助からないだろう。
幸運だけでは済まされない何かを持ち合わせているのかもしれない。
僕も彼女がいなかったらきっと助かっていなかったはずだ。いや、彼女がいなかったら飛び込みもしなかっただろうが・・・・。

彼女を狙う者が僕以外にいる。しかも、そいつは彼女の命を狙っている。
僕は彼女をこのままにして、これから朝刊に載るかもしれない彼女の死亡記事だけを気にしていればいいのだろうか? いや、こんなことはしていられない。

彼女の命を奪われては、たまらない。なにせ彼女は僕の復習の道具なのだから。
彼女が死ねばあいつは悲しむだろうが、僕の家族を死に追い詰めたことへの後悔の念を、僕のこの手で死ぬほど味あわせてやりたいのだ。

遠くからパトカーのサイレンが聞こえてきた。だんだんこの川岸に近づいてきているようだ。日本人もまんざら薄情者ばかりではなかったようだ。となると、こんなところで休んでいたら厄介なことになるかもしれない。彼女をもう一度追いかけよう。でも、せめて家に帰ってパンツは履き替えなくては・・・・。川の水で濡れたぐらいでは、股の痒みは治まらない。

人が来る前に何とか立ち上がった。立ち上がってみて、ここが川岸の茂みの中で人には見つかりにくい場所であることに気がついた。

最後にもう一度、彼女がここに引き上げてくれたことに感謝しておこうと思いながら、濡れた靴とズボンを引きずりながら、川岸を離れていった。

歩くうちに七月の暑さで、衣類もすぐに乾いた。だが、ポケットに突っ込まれたお札と、ズボンの中のパンツは簡単には乾かなかった。

バスか電車に乗る元気は残されていなかったのでタクシーに乗ったのだが、運賃を支払う際には濡れた紙をめくるように、お札をはがして手渡すしかなかった。
怪訝そうな顔をする運転手に「釣りはいらない」と声をかけて、気前良く二十円の釣りは引っ込めさせ、パンツで濡れたシートが見つかる前に急いでタクシーを離れた。

今は何時ごろだろう? 一週間人の後ろをうろうろとついて歩いていたので、時間の感覚がなくなっていた。
頭頂を激しく燻る太陽の熱で、まだ正午を少し回ったくらいだろうと想像した。

自分の住むマンションの出入り口に立つと、妙に懐かしさがこみ上げてきた。

最後にここを通ったのは、二週間くらい前。
あの日、父が母と妹を道ずれに無理心中をし、遺体確認に現場へ来て欲しいという警察からの連絡を受け、飛び出して行ったのだった。
まるであの時が遠い昔のようにも思えるし、つい先ほどのようにも感じられる。

どっちにしてもこのマンションは父の名義で借りているもので、父が亡くなった今となっては一日も早く引き払い、三人の遺骨を並べてある実家の方へ帰らなければならないだろう。

だが、それはあいつを思い知らせた後でなければならないのだ。
まずはシャワーを浴びて、もう一度彼女を探し出すところから始めなくては・・・・。

玄関ドアの新聞受け口の内側から紐付きの鍵を引っ張り出し、それで鍵を開け、また口蓋の中へ落とし込んだ。

部屋の中は窓を全て閉め切っていたので、暑さでムッとしていたが、部屋の中の様子はあの日僕が飛び出したままの状態で、まるでここだけ時間が止められていたようだ。

僕はあの日ここで何をしていたかというと、小説家になるなどという無謀な夢を見て、構想を練るという名目で、数日前からただゴロゴロしていたのだ。
情けない話しだ。父は死に場所を求めていたというのに・・・・。

そのとき、玄関のチャイムが一回鳴った。出る気は全くなかった。
どうぜ何かのセールスマンだろう。

すると、ピンポンピンポーンと続けて2回なった。そのあと間をおかず、ピピピピピピンポーンと連打された。その連打は、玄関ドアを開けるまで続けられた。

連打されている途中でドアを開け、しつこくチャイムを鳴らす張本人を見て、今までの出来事は錯覚だったのかもと思わせるほど、驚いた。

「もう、なにやっていたのよ! 早く開けなさいよ!」そう言って中に入り込んで来たのは、一週間追い続けていた彼女だった。

彼女の名前は、平岩(ひらいわ)早(さ)希(き)。父を自殺に追い詰めた憎い奴の、一人娘だ。

「上がってもいい? はい、これ。郵便受けに入っていたわ。あなたの名前は小槌(こづち)鉄(てつ)太(た)? なんだか変な名前ね」

早希はそういいながら郵便物を鉄太に渡し、靴を脱いで部屋の中へ入って行った。

「あなたが私の後をずっとつけてたから、今度は私が尾行したのよ。と言っても、タクシーで後ろをついて来ただけだけど」

「・・・・・どうしてここへ?」

「だから今言ったじゃない。聞いていなかったの?」

そう言われても鉄太はまだ返事を待っているかのように、早希を見つめたまま立ち尽くしていた。

「この部屋、暑すぎない? エアコンを入れてもいい? ねえ、リモコンはどこ?」

「君・・・・・、なぜここへ」

「だから・・・・」早希はそう言ってため息を一つついた。

「あなたの後ろをついて来たって言ったでしょ、理解の遅い人ねえ。あなた私を誘拐したかったんでしょ? だから誘拐させてあげようと思って。ねえ、エアコンつけてよ」

鉄太はやっと動いてリモコンを早希に渡した。

早希はリモコンのスイッチを入れ、蒸し風呂状態のこの部屋に冷気を送る送風口の真下に立ち、ティーシャツの下まで冷気が入るように、服をつまんで前後に揺らし始めた。

くそ、また股が痒くなってきた。

「ねえ、あなたどうして私を誘拐しようと思ったの? お金が欲しいの?」

鉄太はやっと正気に戻った。

「そんなくだらない理由のためじゃない!」

「じゃあ、・・・・・私の父のせい?」

鉄太はどこまで答えたらいいのか判断できないでいた。

「ああ」とだけ返事をした。

今度は早希が真剣な顔つきになった。

「そう・・・・」その返事には少し深刻みが含まれていた。

「悪いけど僕、シャワーを浴びてきたいんだけど」

もう股の痒さが我慢できない。鉄太は早希の返事も待たず、すぐ風呂の手前の洗面所で服を脱ぎ始めた。

まずズボンとパンツを脱ぎ、さあ次にシャツを脱ごうと思ったそのとき、

「きたないお尻ね」と後ろから声をかけられた。

鉄太は驚いた。まさか早希がついてきているとは思ってもいなかった。

「なぜ、ついてくるんだ!」振り向きながらシャツの裾を下に引っ張り、不恰好な自分の姿を想像しながら、そうさせる早希に怒った。

「私・・・・・・・今日殺されかけたのよ。どこにいても恐くて・・・・・」

ちょっと語尾の震えるその言葉は、きっと早希の本心だろうと、鉄太は信じた。

「わかった。わかったから向こうの部屋で待っていてくれないか」できるだけ優しい口調になるよう、鉄太は努力した。

「そのお尻、皮膚科に行ったほうがいいわよ」

「わかってるってば」今度は口調が少し荒くなった。

「あなた、今日私が川に落とされたとき、すぐに飛び込んでくれたわ。私落ちながらあなたが飛び込むのを見たの。私を助けようとしたのね」

彼女のその言葉を聴きながら、助けようとした僕の今の姿は何て無様なのだろう・・・と、そればかりが気になった。
早くあっちに行ってくれないかな。
シャツの裾をぐっと前に引っ張ると、余計にお尻が露出した。

「まあ、結果的には助けたのは私の方なんだけど・・・・。でも、私にはもうどこにも逃げ込むところがないの。だから、私を助けようとしてくれたあなたに、誘拐されようと思ったのよ。そうしないと前へ進めないの。だから押しかけてきたことを許してね」

彼女はそう言って、洗面所を出て行った。

鉄太はちょっと温めのお湯をお尻に当てながら『そうしないと前へ進めない』というさっきの彼女の言葉を思い出していた。

『前へ進めない』

前へ進めないとはどういうことだろう? 僕が彼女を誘拐することによって、何が進むのだろうか?

僕がこのシャワーを済ませて風呂から出ても、彼女がまだ居るようなら、彼女の言葉をもっと真剣に聞いてみよう。もし、風呂から出て彼女が消えていたら・・・

鉄太が風呂場から出て見ると、早希はソファに丸くなって眠っていた。彼女の体も川に落ちて濡れているはず。鉄太はそう思い丸い背中に触れてみた。すると、エアコンの冷気で冷たくなった体が鉄太の温かい手のひらに驚いたように、「きゃ!」と小さな悲鳴を上げて飛び起きた。

彼女はソファの隅に座り直し、「ああ、驚いた」とつぶやいた。

「君、着替えは?」彼女もさっぱりしたいだろうと、鉄太は思った。

「この中よ、でも、全部びしょ濡れ」早希はそう言いながらショルダーバックの紐を掴んでちょっと持ち上げた。

「あなた、私が誰だか知ってるの?」

「平岩早希、二十三歳」鉄太が答えた。

「さすが誘拐しようと思うだけあって、よく調べたわね。でもまだ二十二歳よ。あさってが誕生日だから。あなたは何歳」

「僕は二十五。半年前が誕生日だった」

「そう・・・・。私と同じくらいかと思ったけど、年上だったのね」

「君もシャワーを浴びてきてさっぱりしたら? 着替えは僕のものを何か貸してあげよう」

鉄太がそう言っても彼女は返事もせず鉄太の顔から目を離さなかった。彼女は僕を信用していない。鉄太はそう感じた。彼女は今日の出来事に心底怯えているのだ。

「私、あまり深く考えずにここへ来たけど、あなたを信用していいものかどうか、今迷っているのよ」

君は正直だ、と言いたかった。

「深く考えている暇は無い気がしたのよ」

彼女は信用してもいいかどうか判断しあぐねている相手に話せるのはここまでだと決めたように、口を閉じた。

「ところで君は今日誰に殺されかけたのか、思い当たる人物はいないの? それともありすぎて限定できない?」

鉄太のその言葉に早希は彼を睨み付けた。

「父のことを言いたいのね。そうよ、父は闇金融業者よ。私は父のその職業が嫌いで三年前に家を出たのよ」

「でも君は一人娘だ。調べれば居所ぐらいすぐに見つけられる」

「あなたにでもできたくらいだものね。そしてあなたは一週間私をつけまわしたわ」

「僕みたいな奴が他にもいたんだろう。君を利用して君の家族に復習をしたいと思う奴が」

その言葉に早希は何も言い返さなかった。鉄太を睨みつける目つきが和らぎ、視線を床に落とした。そして小声で聞いた。

「もしかして、父はあなたにひどい取立てをしていたの? 死にたくなるほど・・・・」

「いや、僕にではない。父にだ。現に父は死んだ」

「・・・・・・・ごめんなさい。なんて言ったらいいか・・・・」

今恨みを晴らすぞとばかりに、鉄太は早希を睨みながら、暗い口調で淡々と話した。

「母の首を絞め、妹の首を絞め、二人を車に乗せて自分は排気ガスをホースで車内に取り込んで中毒死だ」

「ああ・・・そんな・・・・なんて事を・・・・」

「あれは借りたお金ではないと父は言っていた。共同経営で事業を始めるはずだったと。父と君の父親とね。二人は古くからの友人だ」

早希はその言葉に少し驚いた。

「まずは事業展開を有利に進めるために父名義の会社で初取引をすることになった。そのための資金を君の父親が用立てたんだ。うまくいったと父は喜んでいたよ。だがその矢先だ、取立てが始まったのは・・・・。まるで人が変わったような取立てだと父は言っていた。つまり君の父親は僕の父を陥れたんだ。僕の父が死を選ばなかったら、君の父親は高利で用立てた金額の十倍のものを短期間に手に入れられるはずだった」

早希の目は深く沈んだ。父の行為が人の命を奪った。その現実が早希の心を大きく抉った。

「父はどれくらい取立てを続けたの?」か細い声だった。

「二日・・・・だったかな?」

「ふつ・・・、え? 何? 二日? たったの二日?」早希の声と目が大きくなった。

「たったの二日とは何だ! どれだけ苦しんだのか君には想像がつくのか!」

「ごめんなさい。でも・・・・、おかしくない? 父がお金を用立てて何日後に取立てが始まったの? しかもたったの二日であなたのご家族が死ぬほどの取立てって、どんな取立て?」

「そんなこと僕が知るか! 父が母と妹を殺し自分も死を選んだ。これが現実だ!」

「現実はあなたのご両親と妹さんが亡くなったこと。でも事実が私たちの知らないところにあったとしたら?」

「なに?」鉄太はそれだけ言って、心の中で早希の言葉を復唱していた。何かを言い返したかったが、彼女の言葉の意味がわからなかったのだ。

早希は川の水と汗の匂いで臭くなったティーシャツの裾をパタパタと指で膨らませながら、自分の世界にこもるように鉄太の周りを歩きながらつぶやいた。

「なんだか見えてきた気がした・・・・・。そんなことがありえるとしたら・・・・・・、うん、全ての筋が通る」

鉄太のまん前に立ち、真正面から鉄太の目を見据えて聞いた。

「ねえ、あなたのお父様は父の友人って言ったわね。最近父に会った?」

「ああ、多分ね。直接話さないとわからないと言っていたから」

「じゃあ、会ったのは取立てが始まってからなのね」

「多分・・・・。何だよその顔は。君は何かを知ってるのか?」

早希はその質問を無視した。
「大変なことになったわ」そう言って自分の世界にまたこもった。無意識にティーシャツの裾をパタパタと扇ぎながら。

たまらず鉄太が言った。
「君は臭い」

つづく・・・

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