オリジナル小説 夏の風(三)

オリジナル小説

早希は、必ず後で真実を話すからと言って、風呂に入った。鉄太のティーシャツとショートパンツを持って。

鉄太は一人になって、先ほどの早希の言葉と、今までの一連の流れを冷静に考えてみた。『事実が僕たちの知らないところにあるとしたら・・・・』

どう考えても、・・・・さっぱりわからなかった。何をどうひっくり返せば、・・・・どういうことになるんだ?

早希の考える筋道が聞きたくてたまらなかったが、一週間路上で仮眠を取っただけの脳みそは正常に働けなくなっているのが、鉄太にはよくわかった。早希が風呂から出てくるまで脳みそを休めてやることにした。

夢を見た。
僕は十歳年下の妹を背負い、自宅の玄関から二階に上がる階段まで続く廊下を、走りながら何往復もしていた。妹は背中でキャーキャー笑い、僕はその声が聞きたくて何度も走った。
外ではヒグラシゼミがかなかなと薄ら悲しげに鳴き、傾きかけたオレンジっぽい日差しを受けた玄関ドアを開けて、母が中に入ってきた。

『暑いわね。でもこうすると気持ちいいわね』

そう言って、サンダルを脱ぐとすぐ、母は廊下の板の上にゴロンと横になった。僕と妹は笑いながら母の真似をして、母のそばでゴロンと大の字になった。
薄ら悲しげに聞こえたヒグラシゼミの鳴き声が、心に沁みる暖かい鳴き声に変わっていた。

『お父さんが帰ってくるまで、こうしていましょうよ』

母のその言葉に、僕と妹は目を閉じた。

「ねえ、何かこれを止めるものはない?」

その声に目を開けた。横に寝ているはずの母と妹はいなかった。何だ夢だったのか・・・。そう思いながらも、夢で聞いたヒグラシゼミは同じ声で今も鳴き続けている。

このマンションのすぐ向かいの公園で、子供たちが遊ぶ歓声が聞こえてくる。そうか、もう夏休みは始まっているんだ。
少し日が傾きかけたらしい。西日が閉めたカーテンを照らし始めた。

「ねえってば、このショートパンツずり下がるのよ。ベルトか何か止めるものはない?」妹の口調に似てはいたが、妹ではないと分かるくらい、目は覚めていた。

寝ていたソファから起き上がり、頭を振って無理やり頭をすっきりさせようと努力してみた。頭の中からはっきりと目が覚めるに連れ、夢と現実のギャップで、胸の中が鉛色に変わっていくのがわかった。
僕は一人ぼっちになったのだった。

「ねえ、ベルト貸してくれない? 何かベルトに代わるものでもいいから」早希はそう言いながら短パンの腰の部分をぎゅっと手で握り、ボーっとする鉄太の前に立った。

「君、何を知ってるんだ?」ベルトがないくらいで騒ぐな。こっちは家族を全員失ったんだ。

早希は馬鹿ではないようだった。鉄太の顔を覗き、彼の気持ちを察し、短パンのウェスト部分を掴んだまま鉄太の横に腰を下ろした。

じゃあ話すわよと合図するように、深呼吸を二度し、鉄太の顔を見ながら話し始めた。

「一週間前、父に会ったの。三年ぶりにね。三年の間に父は変わっていた。昔の面影が少し残っているくらいで、まるで別人のようだったわ。その上・・・・私の顔を見てもなかなか気付いてくれなかったのよ。義理の母が、・・・・父は半年前に再婚したらしいのだけど、その義母がひょっとしたらって私の名前を呼んだので、やっとわかったの。」

それがどうしたんだと言う顔をして、鉄太も早希の顔を見続けていた。

「三年も会わない間に、なんだか別人になったみたいねって言ったの」

「三年間一度も会わなかった?」

「そうよ。父から再婚すると連絡があったときも帰らなかった。だって私は家出をした身だし、父の再婚ももう五回目だったから」

鉄太はやっと早希への目線をずらし、足元を見た。二人とも素足だった。すると早希の足の指に力が入った。

「あなたの今の気持ちを考えると、なんて声をかければいいのか、わからない。ゴメンなさい、上手に慰められなくて・・・・」

もう一度早希の顔を見た。彼女の言葉が本心からだということが、顔に表れていた。なんて不謹慎な奴なんだ、僕は。
彼女が可愛い・・・・・だなんて。

「父から電話をもらったの。だから父に会いに行ったのよ。なのに父は私のことがわからなかった。ちょっと変じゃない?」

「・・・・・何が?」

「もう! 鈍感な人ねぇ。あなた、大事な話があるからすぐに来てって呼んだ人がすぐにあなたに会いに来たらどうする? あなただれだっけ?って聞く?」

「三年であまりにも君が変わっていたとか・・・・」

「そうね、昔は百キロのデブで、今その半分以下の体重になっていたんだったらそうかもしれないけど、高校のときから体系はほとんど変わっていないし、水泳をしているのでお化粧もほとんどしていない。それでも三年で親が気がつかないほど変わる?」

「君が変わっていないとしたら、・・・・・親の方が変わった?」

「・・・・・・そう簡単に言わないでくれる・・・・・」

早希の声が急にか細くなり、強かった鼻っ柱も下を向いたままになった。

そして、しばらく床を見つめ続けていた早希は、地を這う響きをすくうように、一言一言慎重に発した。

「変わったのではなく、入れ替わったのよ」

鉄太は、早希のその言葉と態度で始めて、事の重大さに気がついた。

「・・・・もし本当にそうだったら、・・・・大変なことだ」

鉄太のうろたえとは裏腹に、早希はゆっくり話し始めた。

「最初に恐い思いをしたのは、その直後よ。病院から帰るとき、駅の階段を下りようとしたら後ろから突き落とされたの。でも、二回転半したところで手すりの付け根を掴んで、何とか静止したのよ。これでも結構運動神経はいいのよ」

言われなくても分かっているよと言いたかった。

「それだけではないの。歩道を歩いていて、猛スピードで走るダンプの前に突き飛ばされそうになったのよ」

「あ、僕はそれを見た気がする。君は突き飛ばされるとき咄嗟に相手の腕を掴んで引っ張ったんだ」

「見てたの? あの時はもうちょっとで二人ともぺっちゃんこになるとこだったけど・・・・・・ぺっちゃんこにしてやればよかった」

「それで?」

「あなた見ていたんでしょ? あの男、びびってどっかに走っていったから、私も今の内だと思って必死で逃げたわ」

「ああ、だから僕は必死で追いかけた・・・。やっと君を見つけたと張り切ってね」

「私は一週間、あなたがあいつらの仲間だと思い込んで必死で逃げ回ったのよ。あなたが私の後を追って川に飛び込むまでね」

「君はあの時命を狙われた。どうして君を殺す必要があるのだろう。」

早希は呆れたように大きい溜息をつき、
「あなたといると疲れてしようがないわ。どうして狙われたのかってどうして今頃聞くの?」と、鉄太を攻めるように鉄太の顔の正面で聞き返した。

幼い子に噛んで含めるように、もう一度鉄太に説明しなおし始めた。

「いい? よく聞いてよ」

鉄太は思わず神妙にうなずいた。

「父が私に電話をしてきたのは、厳密に言うと十五日前よ。大切な話しがあるからすぐに来て欲しいと言われたの。私はすぐに行くべきかどうか迷ったわ。だって・・・」

「君は家出をしている身だから・・・・」

「そういうところは理解が早いのね。そう、私は一週間迷ったあげく、父に会うことにしたの。なぜなら父はその電話のときに『お前が家出を続ける理由が無くなったよ』って言ったの。どういうことか分かる?」

鉄太は正直に首を横に振った。

「やっぱりね」

早希のその言葉に、ちくしょう俺を馬鹿にしているな?とも思ったが、その先を聞きたかったから、鉄太は黙っていた。

「あなたのお父様と父が共同で事業を始めるところだったって言ったわね。そして最初の取引はうまくいったって。多分そのことを私に伝えたかったのよ」

鉄太の脳みその中の別々の場所で回っていた二つの歯車の歯が、ひとつ絡まった。

「君が父親に会いに行ったら、父親は入れ替わっていた。君がそのことに気づいたから、生きていてもらっては困る・・・・。僕の父も不当な取立てを受けた。もうそのときは君の父親は入れ替わっていたんだ・・・・。そうとは知らずに父は君の父親に会いに行った」

鉄太はそのあと大きく息を吸い込みながら早希の顔を見た。

「あなたのお母様と妹さんはまき沿いをくったのよ」

「君のお父さんは?」

早希の目から涙が溢れ、それが頬を転がり落ちるのを、鉄太は黙って見ていた。

「父はああいう職業だったし、あまり親しい知り合いはいないのよ。だから父が入れ替わっても、それに気付く人はいないんだわ。歯を全部入替えただけでも人の顔つきは微妙に違うものでしょ? 誰も別人だとは疑わないわよ。自業自得なのよ」まるで自分に言い聞かせるような早希の言葉だった。

「これから・・・・どうする?」

もう鉄太の頭では何も考え付かなくなっていた。でも、自分の家族が自ら死を選んだのではなく強引に生を断たれたんだと思うと、じっとしていられない心境だった。

「あなたに誘拐して欲しいと思ってたけど、やっぱりやめたわ。それより、他にして欲しいことがあるの」

つづく・・・

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